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御宿まるや紹介

江戸末期の建築様式

  当下諏訪町では、貴重な歴史的遺構である諏訪大社下社の秋宮・春宮を中心にして、それに調和した周辺環境整備と町並みづくりに取り組んでいます。また、長野県でも信州の歴史、文化、自然を活かした「ロマンの町整備事業」を推進しております。


  そのような町づくりの一環として、県、町当局の支援を受け、江戸時代の絵図や古文書を参考にして、平成五年、この旧脇本陣兼旅籠の建物(面的外観と内部の一部)を復元いたしました。
  この建物は、江戸末期の下諏訪宿の旅籠の建築様式を取り入れています。


  周辺の景観に調和した佇まいは、中山道と甲州街道の合流地点である下諏訪宿に相応しい、美しい町並みを奏でております。


  建物は構造材も含めて、すべて木材と漆喰壁でできています。
また、以前の建物(明治44年建築)の梁材等も数多く再利用されています。


土蔵(明治初期建築)も昔のままの形で復元、再生いたしました。

白壁と木組構造

出し梁格子造り



◆出し梁格子造り(だしばりこうしつくり)
  一階の表側の梁を、通りに向かって柱より一尺張り出させ、道路面開口部に面格子をはめ込んだ建物様式です。
「出し梁」の先端は木鼻といい、雲形や猿頭等で装飾されます。

◆格子は竪繁格子(たてしげこうし)
  面格子の形は竪繁格子といい、諏訪の宿場の独特の様式です。
格子はそれぞれの地方によって独自の形式をもっています。

まるやの由来
御宿まるやの写真

この下諏訪宿のなかで、当家は宿場の中心部に位置し、「丸屋要四郎(代々襲名)」として脇本陣を勤めてまいりました。


当家の創業は、古文書や過去帳等から元禄二年(1689年)頃と推定されますが、創業以来三百年余り、この地で旅籠を営んできたことになります。


江戸中期頃は、「まるや」と筋向かいの問屋「ひものや」とが交替で脇本陣を勤めてきた時期もあり、その後なぜか仮脇本陣としての資格しか許されなかった時期もありました。

大きな宿場であった下諏訪に、長い間仮脇本陣しか許されなかったのは不可解ですが、恐らく幕府による宿場抑制政策の結果だと考えられます。


その後、当家では何代にもわたって、脇本陣設置を願い出た古文書が多く残されていますが、江戸後期・天保二年(1831年)頃になって、再び正規の脇本陣となり明治五年の宿駅制度の廃止に至っております。


まるやの歴史
まるやの歴史
◇中山道・甲州道の分岐点 ― 街道屈指の宿場

この下諏訪宿は、江戸時代の初期から明治の初期まで中山道最大級の宿場ともいわれ、諏訪地方全体の経済交通、文化の中心地でした。

古代から全国的に信仰のあった諏訪大社のお膝元にあり中山道と甲州道の分岐点でもあり、また道中六十九次のなかで唯一の温泉場でもあったため、大変な賑わいであったといわれています。


江戸期以前の鎌倉時代、戦国時代においても、諏訪神社信仰とあいまって、宿駅としての中心的機能をすでに果たしていたようですが、本格的な宿場の形成と繁栄は江戸初期・慶長七年(1602年)に五街道が制定されその後、諸大名の参勤交代が制度化されてからのことです。


江戸時代の長きにわたって、参勤交代のためこの下諏訪宿を通過した諸大名は数知れず、また、皇女和宮をはじめ皇族姫君の降嫁の行列なども十一回を数えみな当家の前を通ってまいりました。


このような独特の歴史と文化を背負った下諏訪宿の中心が、当家の前の問屋場一帯であったわけです。

メディア掲載状況

御宿まるやのメディア掲載情報です。

  • 雑誌『一個人 −永久保存版 至福の朝食−』に掲載されました
  • 雑誌『男の隠れ家』(2014 2月号)に掲載されました
  • 雑誌『KURA』(2011 7月号)(2013 9月号)に掲載されました
  • 雑誌『自遊人 −温泉図鑑−』に掲載されました
  • 雑誌『旅の手帖』(2012 5月号)に掲載されました
  • 書籍『日本百名宿』(柏井壽著/光文社出版)に掲載されました
御宿まるや写真

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外観 正面外観 旅館玄関 旅館玄関
囲炉裏から見る中庭と土蔵 階段踊り場より 玄関広間より 玄関広間より 庭
館内 玄関広間 河東碧梧桐による屋号の書 明治時代の下諏訪宿の写真 亀田鵬斎により書かれた屏風
風呂場への渡り廊下 階段踊り場に活けられた季節の草花 階段踊り場 客室前廊下